yuanzi の徒然日記

G.G.世代旅好きオバサンが綴るブログです

憧れの古代文明発祥の地 エジプト④

ナイル川中流域の遺跡~ ホルス神殿、コム・オンボ神殿へ

 

私達を乗せたクルーズ船は、ルクソールからアスワンに向けて航行していく。そのナイル川中流域にはたくさんの遺跡が点在している。その途中の町に寄港して観光。

 

最初に訪れたのは、エドフという町のナイル川西岸にある「ホルス神殿」。この神殿はエドフ神殿とも呼ばれる。神殿までは馬車に乗って向かう。

 

ホルス神殿に到着。高く聳えるホルス神殿の塔門が目に入ってくる。

 

馬車を降り広々とした所で、先ず驚いたのは周囲の景色だ。そこでぐるりと見渡す風景を動画に撮っていたので、写真に切り取ってみた。反時計回りに見渡した風景。

土砂が堆積した丘の上に建物が・・。

左にカメラを回していくと、ホルス神殿が見えてくる。

ホルス神殿の左手には、近年古王国時代の遺跡が発見されているそうだ。

さらに左に向けると、やはり巨大な丘が連なっている。

さらに左に向けると、エドフの街並みが見えてくる。

この神殿は、何世紀にもわたり、神殿に吹き積もる砂漠の砂やナイル川の堆積土によって埋もれてしまっていたそうだ。そのことが、この風景から窺い知ることが出来る。そして、埋もれていたことによって、エジプトで最も保存状態の良い神殿の一つとなったそうだ。

 

「ホルス神殿」は、プトレマイオス朝時代に建造された神殿の一つで、B.C.237年に建造が始まり、プトレマイオス12世のもとB.C.57年に完成した。プトレマイオス12世は、有名なクレオパトラ7世の父である。また、この神殿はハヤブサの姿をしたホルス神に捧げられている。

 

神殿へ向かって歩いて行く。手前に見えるのは、誕生殿かな?

 

神殿の巨大な塔門。入口付近にいる人と比べると、その大きさが分かる。高さ36mの塔門は、これまでエジプトで見た神殿の中で一番高い塔門に見えた。ところが、「カルナック・アメン大神殿」の方が高いそうだ(アメン大神殿:第一塔門 43m)。ただ、塔門の幅を比べると、ホルス神殿の方が大きいため巨大に見えるのかもしれない。

入口の両脇に見られる各2つの溝は、多くの神殿にも見られるように旗柱を立てたところだそうだ。正面のレリーフには、プトレマイオス12世が敵を打倒し、中央のホルス神に捕虜を捧げている様子が描かれている。

入口の左右に黒花崗岩で出来た美しい「ホルス神像」が立っている。

 

塔門入口から広い中庭に入る。正面の建物入口を入ると第一列柱室がある。

第一列柱室前に立つ「ホルス神像」↓。ホルスは頭に上下エジプトを合わせた二重冠をかぶっている。

 

第一列柱室に続き第二列柱室がある。これはどちらの列柱室を撮ったのか忘れてしまったが、天井を見上げると、天井を支える柱頭部分が違ったデザインになっている。また、天井がすすけて見えるのは、後のキリスト教徒たちが台所として使ったからだと言われている。

 

神殿内には、神殿の主であるホルス神やその妻ハトホル女神のレリーフが、あちこちで見られる。これはハトホル女神のレリーフだと思うが・・。写真の撮り方が大変お粗末で、右に半分写っているのはホルス神だと思う。

 

この他にも、神殿内に重要なレリーフがたくさん見られる。

 

神殿の一番奥にある「至聖所」。そこにはレバノン杉で造られた聖舟(レプリカ)が置かれている。

また、その奥に赤花崗岩の一枚岩でできた祠堂(オリジナル)が残っている。これは、紀元前4世紀頃のネクタネボ2世によって造られたものだそうだ。

 

神殿を囲む周壁と神殿の間にある回廊にも、多くのレリーフを見ることができる。ところが、そのレリーフの多くが削られている。これは、後のローマ帝国時代、非キリスト教が禁止され、エジプトを支配するために来たキリスト信奉者により破壊されたのだそうだ。

 

ここには、エジプト神話における有名なホルスとセトの積年の対立に関するレリーフが見られる。ホルスの父であるオシリスが、その弟セトに殺害された。その後オシリスは冥界の王となったが、地上の王権を巡ってセトとホルスが争うことになった。

ホルスが船の上から長いモリのようなものでカバの姿をしたセトを突いている場面(下の部分が写ってない😭)。壁面には、このような場面が続いている。

この写真では、船の下にカバの姿をしたセトが小さく確認できる。

(写真:Wikipediaより)

 

ホルス神殿の観光が終わり、再び馬車に乗ってクルーズ船に戻る。

この時、乗る前に渡された馬車の番号が書かれた小さな紙片を紛失したことに気づいた。御者の顔も覚えていない。「どうしよう・・。」と不安になったが、ずらりと並ぶ馬車の中で、私と友達に手を振る御者さんがいた。良かった! 彼の方が私達を覚えていてくれたので、無事にクルーズ船に戻ることが出来た。

 

 

次は、エドフとアスワンの中間に位置するコム・オンボという町にある「コム・オンボ神殿」へ。

 

途中のナイル川河畔の風景。

クルーズ船屋上のサンデッキはこんなふう。

 

コム・オンボに到着し、ナイル川東岸の小高い丘の上に建つ「コム・オンボ神殿」へ。船を降りて歩いて向かう。

 

コム・オンボ神殿」は、プトレマイオス朝時代(B.C.332年ー32年)に建設された。この神殿は大変珍しい二重構造神殿。神殿の右側半分は、豊穣と世界の創造の神であるワニの神「セベク」に捧げられ、左側半分は大ホルスの別名で知られる神「ハロエリス」に捧げられている。左右対称に造られた神殿の入口が二つに分かれ、至聖所も二つに分かれている。

周囲にこんな太い列柱も残っている。

これは塔門の一部かな?

 

天井部分には色が残っている。

 

神殿内には、綺麗なレリーフがたくさん見られる。

トト神(トキの頭)とホルス神(ハヤブサの頭)がファラオに聖水を注いでいるレリーフ。よく見ると、聖水の雫はアンクの形になっている。

右端の神は、ワニの頭のセベク神。

左端はクレオパトラ7世、その右隣りは姉のクレオパトラ6世だそう。

これは、赤ちゃんの誕生を描いたレリーフ。左端は授乳を描いているのだそう。

いろいろな神々が並んでいる。左端はトキの頭のトト神、中央はライオンの頭のセクメト女神。

少し拡大した写真↓。

このレリーフには、ワニの頭のセベク神(左から2番目)がいる。それにしても、右上のえぐられたような穴は何だろう? 破壊された跡だろうか?

 

この神殿は、ナイル川の氾濫や地震で、そして後の神殿の石を利用する建設業者によって破壊された部分が多いという。レリーフの一部は、神殿を教会として利用したコプト教徒によって損傷したそうだ。

 

レリーフに色が残っている。そして、見事にぽっかり開いた穴。

 

さて、この神殿には見所ともいえる二つのレリーフがある。そのうちの一つが医療器具を描いたレリーフ。左に座っているのは産婦だそうだ。医療器具は、現代でも使えそうなものが揃っている。凄い!

同じレリーフ(写真素材サイトより)↓

 

もう一つの有名なレリーフは、古代エジプトの暦。最古のカレンダーと言われている。でも、残念ながらその写真を撮ってなかった。

 

一年が365日かけて巡ると初めて発見したのは、古代エジプトの人々だと言われている。

エジプトでは、毎年夏になるとナイル川が氾濫を起こしていた。その頃、太陽が昇る直前、東の空に恒星シリウスが輝く。それをきっかけに観測を進めていくことで、一年が365日で巡ることを発見した。30日の月が12か月あり、残りの5日を神様の祭日としていたそうだ。

 

これは、円形の井戸の形をした「ナイロメーター」。

ナイロメーターは、毎年氾濫するナイル川の水位測定に使われた。ファラオの時代、ナイロメーターは税の計算に使われ、井戸の水位が豊作を示している場合、税が高く設定されたそうだ。

 

二つの三角形を繋げたような穴は、石材どうしを繋げるために使われた穴なのかな? その都度ガイドさんの説明があっただろうけど、すっかり忘れている😢。

 

こうして見ていくと、エジプト文明がいかに高度な文明であったのかが分かります。何千年も前の建造物が残っているだけでも驚きなのに・・。残された遺跡や様々な遺物を見ると、現代の私達の生活に活かされている物ばかりで本当にびっくりです。

 

ここは神殿に隣接する「ワニの博物館」。中に入った記憶はあるが、はっきり覚えていない。ワニのミイラがたくさん展示されていた。

この辺りのナイル川では、かつて、コム・オンボ神殿の主神の一つであるワニがたくさん生息していたそうだ。

向こうに少し見えるのがコム・オンボ神殿。

 

この日の観光が終わり、再びクルーズ船に戻り南へ向けて航行していく。

 

船上から見た真ん丸のお月様。

そして、ナイル川西岸に沈みゆく太陽。エジプトの夕陽は、とっても美しく感動的だった! 船の動きと共に少しずつ河畔の景色も変わってゆく。

 

夜船内では、エジプトの民族衣装を着て楽しむ「ガラベーヤ・パーティー」が催されていた。私と友達は疲れていたので、早々に部屋に戻った記憶がある。

 

 

翌日からは、⑤で紹介します。