yuanzi の徒然日記

G.G.世代旅好きオバサンが綴るブログです

憧れの古代文明発祥の地 エジプト③

古代エジプトの都テーベ(現ルクソール)~ ナイル川西岸へ

 

翌日は、ルクソールナイル川西岸の観光。

「王家の谷」とナイル川の間に広がる平原に「メムノンの巨像」↓がある。

この巨像は、高さ約21mもある2体の巨大なアメンホテプ3世の座像。もともと背後にあったアメンホテプ3世の葬祭殿の入口に据えられていた。その葬祭殿は、後のファラオたちによって石材調達のため破壊され、今は残っていない。

 

この「メムノン」という呼び名は、ギリシャ神話のトロイヤ戦争に登場するエチオピアメムノンに由来する。

B.C.27年(ローマ時代)に起きた大地震によって、向かって右側の像に深い亀裂が入った。それ以来、朝日を浴びると長く呻くような音を発するようになり、像が悲しく歌っている声だと人々に信じられるようになった。この「歌う石」はギリシャ神話に結び付けられ、メムノンが母を慕って泣いたうめき声だとされた。

しかし、これは激しい温度差により軋みが発生するもので、後の補修工事により声を出すことがなくなったそうだ。

 

 

次のスポットに向かう途中↓。

帽子のディスプレイが可愛い。でも、背後の建設中のような建物を撮ったのかもしれない。こんな光景を東南アジアやトルコで見かけたことがある。お金が貯まると、上に上にと建物を建て増していくらしい。これも、その類の建物かな?

 

次のスポット、古代エジプト建築の傑作の一つと言われる「ハトシェプスト女王葬祭殿」。大きな岩山の傾斜を利用して建てられ、建物は3階建てになっており、中央のスロープで上って行く。壮大で均整のとれた美しい葬祭殿だ。

復元されたスフィンクス↓。この葬祭殿にもスフィンクス参道があったそうだ。陽気な添乗員さんがスフィンクスになりきっている(笑)。

この周辺には、プントから持って来た植物が植えられた庭園があったことも分かっているそうだ。

 

背後の岩山の向こうには「王家の谷」がある。因みに、ここは第2テラスを歩いているところ。めちゃくちゃ広~い!

向かって2階の左端にはハトホル女神の礼拝所があり、右端にはアヌビス神の礼拝所がある。

 

ハトシェプスト女王は、紀元前15世紀頃に活躍したエジプト初の女王。夫のトトメス2世の死後、まだ幼かった義理の息子トトメス3世(トトメス2世の側室の子)の摂政となったが、のちに自らファラオとなった。

ハトシェプストは通商に力を注ぎ、東アフリカのプント(現ソマリアエチオピア周辺)と交易していた。その様子が葬祭殿の壁画に描かれている。

2階左側の列柱廊の壁にプントとの交易のレリーフが描かれ、右側列柱廊には女王の生誕のレリーフが描かれている。

 

プントとの交易が行われていたレリーフ。エジプトでは見られない種類のヤシの木や住居が描かれ、川のように見えるのは紅海(波の模様)を表しているそうだ。

大きな船にたくさんの人が乗って紅海を航行していくところ。紅海には海の魚・イカ・エビなどが泳いでいる。

大きな木が描かれている。ハトシェプストが没薬の原料が採れるミルラの木も運んできたそうだ。

右側の牛の姿をしたハトホル女神↓。左側にハトシェプスト女王の姿が描かれているが、削られているそうだ。(この写真では分かりづらい)

 

ハトシェプスト女王の死後、実権を握ったトトメス3世によってことごとく女王の姿やカルトゥーシュが削られたため、”歴史から消された女王”と言われている。かつては恨みによるものと言われていたが、最近の説では、本来エジプトでは男性が王位継承するので、その正統性を示したかったという説が有力とのことだ。

 

ハトホル女神のハトホル柱↓ ハトホル女神は牛の姿で表されることが多いが、この女神像はエジプトの神としては珍しく正面を向いた顔で、耳が牛の耳で描かれている。

ハトホル女神の礼拝所↓

 

3階に上ると、ハトシェプストの顔をしたオシリス神像の列柱が立っている。実際にハトシェプストは、男性のように顎鬚を付けて男装していたと言われている。

女性らしい顔立ちだが、きりっとした表情。彩色の跡も残っている。

 

第3テラスの中庭に出て、正面中央の「至聖所」の入口。

中庭から見上げた背後の険しい岩山。

第3テラスで見られる壁画。

 

ハヤブサの頭部をもつ天空の神「ホルス神」。

 

さて、「ハトシェプスト女王葬祭殿」といえば、忘れられない事件があります。

1997年このハトシェプスト女王葬祭殿で、テロ事件(ルクソール事件)が起きました。イスラム原理主義過激派「イスラム集団」が、外国人観光客に対して行った無差別殺傷テロ事件です。この事件により日本人観光客10名を含む62名が亡くなられました。

日本人観光客も犠牲となった大変ショックな出来事でした。ここに来た時、そんな悲しい出来事を思い出し、何とも複雑な心境になりました。

 

 

この日の最後の観光は「王家の谷」。

私達が訪問した頃は、カメラの持ち込みが禁止されていたようで写真が一枚もない。

 

ビジターセンター付近から電気バス(タフタフと言うらしい)に乗車して「王家の谷」の入口へと向かう。(以下2枚は、写真素材サイトより)

王家の谷はこんなところ。

 

「王家の谷」には、第18王朝の王トトメス1世に始まり新王国時代の歴代ファラオが埋葬された。東の谷と西の谷に64基の墓(現在65基?)が発見されているそうだ。このような谷間に岩窟墓を造ったのは盗掘を避けるためだったというが、長い歴史の中で多くの墓が盗掘されてしまった。

ところが、1922年ハワード・カーターによって発見されたツタンカーメン(トゥトアンクアメン)王の墓は、唯一ほぼ未盗掘のままで発見され、今日副葬品の財宝はカイロの博物館で見ることができる。

 

ところで、私の記憶が曖昧で、「ツタンカーメン王墓」を見学した記憶ははっきりしているのに、他の王墓の記憶が薄れている。

「王家の谷」の入場券で公開されている墓のうち3つの王墓が見学できる。ただし、「ラムセス6世の墓」、「セティ1世の王墓」、「ツタンカーメン王墓」は、入場券以外にそれぞれ別途料金が必要。

私の手元に「ラムセス6世の墓」・「セティ1世の王墓」が両面に印刷された、一枚の大きなパンフレットが残っているので、もしかしたら「ラムセス6世の墓」を見学したのかもしれない。チケットが残っていたら、もう少し思い出すのに・・😢。

 

ツタンカーメン王墓」は、他の墓に比べて小さく質素だった。TVなどでよく見ていたので、初めて見たような気がしなかった。ただ3000年以上も墓の中で静かに眠り続けているツタンカーメンのミイラを見た時は、さすがに感動した。

もう一つ記憶に残っている墓は、直線的な構造で奥に長く続き、両側の壁面や天井に色鮮やかな壁画やレリーフが綺麗に残っていた。列柱広間もあった記憶がある。

残念ながら、私の王墓の記憶はこの程度・・。

 

ツタンカーメンは、第18王朝のファラオ。父アメンホテプ4世の跡を継いで、わずか9歳で即位したが、19歳という若さでこの世を去った。

彼は、父アメンホテプ4世の宗教改革で招いた混乱を、元の宗教を復活させ、また遷都した都をテーベに戻すなどファラオとしてエジプトの安定に貢献した。しかし、父王と同様に王名表から消されていたため、その存在をほとんど知られることがなかった。

 

 

この日の観光は終わり、クルーズ船に戻った。

今までルクソールに停泊していた船は、いよいよ南に向けて航行していく。

ナイル川の西側に太陽が沈んでいく美しい夕景。

たくさんのクルーズ船が列をなしている。途中「エスナの閘門」を通過するので、順番を待つ列ができていたのかな?

 

すっかり暗くなってから、やっと私達のクルーズ船が「エスナの閘門」を通過した。

閘門(ロック)とは、河川の高低差を船が越すための施設。この時はナイル川の上流へ向かうので、ロック内に入ると水位を上昇させて船を持ち上げる。そして上流へと向かう。ロック内に一度に2隻しか入れないため、船が列をつくって順番待ちになるようだ。




翌日からの観光は、④で紹介します。