yuanzi の徒然日記

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ソウルから古都扶余へ日帰り旅行

NHKで放送されている韓国時代劇『王女ピョンガン 月が浮かぶ川』が、最終回に近づいています。このお話は、古代・三国時代高句麗で、6世紀半ば、国を守るため戦う王女と純朴な青年の真実の愛と絆の物語です。

この三国時代は、高句麗新羅百済の時代です。今回は、この高句麗と同時代の百済の最後の都が置かれた扶余へ行った旅行記です。(2016年8月末)

 

百済最後の都 扶余(プヨ)

 

538年、百済王朝は聖王(聖明王)の時代に熊津(現・公州)から泗沘(現・扶余)に遷都された。この後、660年百済滅亡まで約120年間仏教文化が花開き、王都として繁栄した。

 

さて、扶余へはソウルから現地オプショナルツアーに参加した。現地ツアーと言っても、日本の大手旅行社が催行するツアーで、ガイドは日本語を話す韓国人、参加者は全員日本人だった。

ツアー代金が一日観光としてはリーズナブルで、個人で行くより効率よく安価に行くことができた。なので、韓国人ガイドさんは、利益の出ないツアーだと不服を漏らしていた。

 

最初に訪れたのは「宮南池」(薯童公園)。

ここは扶余の市街地から南側1㎞ほどの距離にある、韓国最古の人工池で、百済の武王(薯童)が634年に王宮の南の離宮に造った庭園。

 

池の中央に東屋「抱龍亭」が建つ。ここは韓国時代劇でよく使われる撮影スポットなので、初めて来たようには感じられなかった。

この「抱龍亭」では、連夜盛大な宴が繰り広げられたという。

緑の柳の木とよく合う美しい景色。百済の造園技術は非常に優れたもので、新羅や日本にも影響を与えたと言われる。

 

百済の武王は、韓国時代劇『薯童謡(ソドンヨ)』に登場する主人公・薯童(ソドン)のこと。この宮南池は国を越えて結ばれた薯童と新羅の姫・善花(ソンファ)が憩った場所で、二人の愛を伝えるロマンティックスポットとして有名だそうだ。

 

その二人の愛のお話が書かれている↓。

 

池の中の噴水に掛かる虹。

とっても美しい光景だが、空の様子がちょっと変。ちょうどこの頃、東の日本には台風が来ていた。眩しい陽の光が降り注いでいるが、この日は8月とは思えない爽やかな一日だったのを覚えている。お陰で気持ちのいい観光日和となった。

 

この池の周囲には広大な蓮池が広がり、色とりどりの蓮の花が咲き乱れる。現在の庭園は復元されたものだが、当時はこの3倍はあったと推定されている。

7・8月が見頃で、7月には蓮祭りも開催されるそうだ。8月末でも結構咲いていて楽しめた。

全部を写真に収めることが出来なかったが、種類もたくさん見られた。

 

扶余の4カ所の百済歴史地区が、世界遺産に登録されている。

 

次は、古戦場となった白馬江(ペンマガン)の遊覧。

「クドゥレ船着き場」↓ この船の名前は「薯童2号」。

 

扶余の市街地の北側を流れ黄海に注ぐ錦江(クガン)は、この辺りでは「白馬江」と呼ばれる。また、古代日本史に登場する「白村江(はくすきのえ/はくそんこう)」のことである。

660年に百済は、唐・新羅の連合軍に敗れ滅亡する。その後、百済復興を目指す百済遺民と援軍要請に応じた日本との連合軍が、唐・新羅の連合軍とここで戦い敗れた。

※663年の「白村江の戦い」です。

 

このクルーズのハイライトである「落花岩」を船上から見上げる。ピンボケになってしまったが、岩肌に赤字で「落花巌」と刻まれている。

扶蘇山城の北側にある絶壁「落花岩」は、百済の悲しい歴史を物語る場所。

660年百済が陥落した際、3000人もの宮廷女官たちが白馬江に身を投げ貞操を守ったと言い伝えられている場所。その姿は、まるで花が散るようだったことから「落花岩」と名づけられた。

 

10分程の遊覧が終わり、扶蘇山城の船着き場近くにある「皐蘭寺(コランサ)」へ。

「皐蘭寺」の本堂。

落花岩から女官たちが身を投じる様子が、寺の壁面に描かれている。また、扶蘇山城の建物が炎上しているのが分かる。

彼女が韓国人ガイドさん。

この寺の裏手の岩場から湧き出る湧き水がある。百済時代の王達は、この湧き水を若返りの薬水として好んで飲んだ。宮女たちにその水を取りに行かせた際、そこから確かに取って来たという証拠に、その岩場に生える皐蘭草の葉を浮かべて差し出させたという。皐蘭草は古くから薬草と考えられてきた。

 

この後、落花岩の上に、身を投げた女官たちを追慕するために建てられた東屋「百花亭」を見に行く。

「落花岩」の石碑↓

天井には蓮の花が描かれている。蓮の花は清純無垢の象徴で、極楽浄土に咲くとされている。

ここから、眼下にゆったり流れる白馬江を見下ろすことが出来る。長閑な風景が広がっている。

 

 

昼食の後、訪れたのは扶余の街の真ん中に位置する「定林寺址」。

因みに昼食は、扶余名物の蓮の葉ご飯を食べたような記憶があるが、写真がないので定かではない。

 

ここは百済後期を代表する寺址。現存するものは、百済塔とも呼ばれる「五重石塔」1基と高麗時代の石仏が1体のみである。

 

高さ8.33mの「五重石塔」は、空に向かって聳え立ち、簡素ながらも均整のとれた美しい塔だ。

新しく建てられた講堂の中に安置されている「石仏座像」。百済滅亡後、高麗時代に再び繁栄した定林寺の本尊仏だったと考えられている。破損・摩滅がすすんでいる。

 

この後、定林寺址の向かいにある「国立扶余博物館」の見学。

この博物館には、日本の文化発展にも多くの影響を及ぼした百済文化の遺物が多数展示されている。

 

ところが、私が撮った写真はこの一枚だけ。扶余に来た一番の目的は、これを見たかったから・・。でも、もっと撮っておけば良かったと後悔している。

 

この博物館の目玉とも言える国宝「百済銅大香炉」。王の威信を余すところなく伝える、この時代の最高傑作と評される。

脚部は龍、そして蓮の花の蕾を象った胴体の上に優美な鳳凰が載っている。胴体部には様々な模様が複雑かつ詳細に描かれていて、とても神秘的な印象を与える。

この大香炉は、1993年に陵山里寺址の土の中から偶然発見された。発見当時まで泥の中に埋まった状態だったため、完璧に保存された状態だったそうだ。1400年ぶりに長い眠りから覚めたということだ。

一種の祭祀用の香炉として使われたと言われている。

 

このツアーは、ここで終了しソウルへ戻った。

 

 

ところで、百済の最後の都として栄えたはずの扶余の街は、小さくて静かな印象を与える。このツアーの韓国人ガイドさんは、修学旅行で扶余に来たことがあるそうだ。「その頃とちっとも変っていません。」と言っていたのが、とてもよく印象に残っている。私達外国人から見ても、かつての古都だと言われても、何だか寂しさを感じる街だ。

 

一つには、その時代を思わせる歴史的建造物があまりにも少ないからかもしれない。

また、扶余地域の大部分が文化財保護法により、数十年間開発が制限されていて、そのため地域の風景を変える高層ビルは見当たらない。建物を建てようと地面を掘り返すと遺跡が出て来て、再び埋め戻すということが珍しくないそうだ。

 

そんな事情から、寂しい田舎町という印象をもってしまうのかもしれない。まだ眠っている遺跡が整備され、建物の復元が進めば、古都としての趣を備えてくるのではないかと感じた旅でした。